『おろかな日々』

目黒それでは、『おろかな日々』にいきます。週刊文春に連載している赤マント・シリーズの第2弾です。1993年3月に文春から単行本が出て、1996年6月に文春文庫と。まずね、閉所恐怖症はあるけど高所恐怖症はない、というのが面白かった。これ、昔から?

椎名子供のころは気がつかなかったけど、ダイビングやるようになってから、自分は閉所恐怖症だって気がついた。

目黒MRIがダメな人っているね。

椎名おれも昔はいやだったもの。

目黒いまは?

椎名だってあれは隙間があるだろ? だから克服した(笑)。

目黒やっぱりイヤだったの?

椎名見るだけでイヤだったよ。

目黒高いところが平気だっていうの、わからないなあ。

椎名ただね、おれも怖いと思うのは、木に登るだろ。その木の上でボールを上に投げて落ちてくるのを捕るっていうのは怖い(笑)。

目黒(笑)そんなの捕らなくてもいいって。

椎名考えただけでも怖い(笑)。それだけはしたくない(笑)。

目黒あと面白かったのは、ニコルさんと会ったときに、椎名がもう四十二歳になったんですよと言うとね、ニコルさんが「ぼくはまだ四十七歳ですよ」と自信に満ちた表情で言うくだりがある。その笑顔がとても新鮮だったと書いている。

椎名なるほどね。

目黒つまり「もう」と思うか、「まだ」と思うかの違いだね。いまから思えば、四十二歳だぜ、すごく若いよね。

椎名なりたいよな四十二に(笑)。

目黒おれも覚えていたのは「居酒屋の披露宴」という回。梟門でおれと椎名が打ち合わせをしていたら予約していた団体が入ってきて、というより今日は団体が入ってますけどいいですかって店長に言われて、いいよ隅のカウンターでいいからって打ち合わせをしていたときの話なんだけど、それが文学座の裏方さん同士の結婚式だった。おれが鮮明に覚えているのは、その翌週か翌々週の赤マントを見たらそのときの様子を椎名が書いていて、それによると結婚式の二次会かと思ったら、それが結婚式そのものだったというの。つまり質素で、慎ましやかなわけだ。新郎は劇団の車両部に属する青年で、新婦は制作の事務系部門に所属で、そういう細かなことがいっぱい書いてある。あれには驚いた。だってそのときにおれも一緒にいたわけだからね。たぶんいろんな人のスピーチを聞いて、椎名なりに推測したんだろうけど。おれの耳には全然入ってこなかったから、いつ聞いていたんだよと。

椎名作家の細やかさの現れだな(笑)。

目黒おれも当時はそう思ったの。さすがに作家は目と耳がいいと。でもね、今では違うふうに思っている。オレとの打ち合わせに身が入ってなかっただけじゃないのかと(笑)。その疑いがある。

椎名まあまあ。

目黒いちばん驚いたのは、「原稿読むのは楽じゃない」という回。このころ椎名は、新潮社の「推理サスペンス大賞」、小説現代の新人賞、そして松山市の「坊ちゃん文学賞」と選考委員をやっていて、それがほぼ同じころで、いっぺんに大量のワープロ原稿が送られてくる。それが合計で五十編、原稿枚数にして六千枚の原稿を読むっていうんだよ。いくら三つが重なっても多すぎるんで、変だなあと思って読み進むと、犯人は坊ちゃん文学賞で、なんと百枚前後のものが三十一編送られてきたと。これはどう考えても最終選考の本数じゃないよね。最終選考というのは普通4〜6本でしょ。そこまで絞るために下読みがいるわけで、それでも絞りきれないときは第二次選考が入るけど。いやあ、これにはびっくりした。

椎名広告代理店が仕切っていたんで、文学賞をやってことがないんだな。だから知らないわけさ。第1回だったし。

目黒あ、このときが第1回だったの?

椎名そう。抗議して次からは減らしてもらった。

目黒そりゃそうだよ。「ターミネーター2」を新宿プラザに見にいく回があるんだけど、四十分前に行ったのに行列が出来ていて、そこに椎名も並んで、その段階でまだ七編も読み残していたから、行列に並びながら読んだって書いている。

椎名そうそう。あったなあそんなこと。いつもワープロ原稿を持ち歩いていたよ。

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