『土星を見るひと』
目黒次は『土星を見るひと』。1989年3月に新潮社から刊行されて、新潮文庫に入ったのが1992年6月。7本を収録した作品集なんですが、発表誌はばらばらですね。ええと、小説新潮が2本と。えっ、たったの2本なの? よく他が新潮社にくれたね。他は小説宝石が1本、野性時代が1本、青春と読書が1本、別冊潮が1本、LEが1本。なに、このLEって?
椎名どこかのPR誌かなあ。全然、覚えていない。
目黒よそが1本ずつなんで、新潮社にくれたのか。
椎名そうかもしれないな。
目黒その帯に「叙情小説集」とあるんですよ。
椎名叙情じゃないだろ(笑)。
目黒いや、これは編集者が困ったんだと思う。というのは、中身も見事なほどばらばらなんだ。幻想がかった小説もあれば、私小説もあり、エッセイに近い作品もあるから、これは困るよね。その帯には「夢と現実のあわいで触れあう一瞬の思いを描く、哀愁とユーモアに満ちた叙情小説集」とあって、なんだかよくわからないんだけど、こういうふうにでもまとめるしかなかったんじゃないかなあ。
椎名そうか。
目黒この中に「壁の蛇」という作品があって、これは小説新潮の1988年5月号に載った短編なんだけど、これ、なぜか、おれ、覚えていた。
椎名えーっ、おれだって忘れてるのに。
目黒読んで思い出したんじゃなくて、ずっと覚えてたんだよ。学校の当直を椎名が他の先生から変わってさ、で、当直室にいると女が忍んでくるって話。
椎名ああ、あれか。
目黒で、その当直室の壁に蛇がいる。おれはこれ、傑作だと思っているわけじゃないんだけど(笑)、昔に読んだのを覚えているくらい、妙に印象に残っているんだよ。何なのかなあ。妻帯者の先生の当直を変わってあげると喜ばれるんで、椎名が変わったのは事実だと思うんだけど、女が忍んできたのはフィクションでしょ。
椎名そりゃフィクションだよ。当直室で寝ていたら壁になんだかシミがあるんだよ。何だろうと思って見ていると、そのシミが動つんだな。蛇だったわけ。で、熊手のようなものを持ってきて、当直室の外に出したんだけど、もう眠れなくなってさ。その記憶が鮮明に残っている。
目黒妙なリアリティがあるんだよ。これは高校の事務職員だったころの話をもとにしているわけだろ。
椎名柔道部のコーチをしていたんだよ。
目黒あと、覚えているのは「コッポラコートの私小説」。これは椎名がノイローゼになったときの話をその五年後に書いた小説だね。
椎名映画の『地獄の黙示録』を見たころの話だな。
目黒米軍払い下げの長いコートをアメ横で買って、それを着て椎名がぼーっと事務所に現れるんだよ。本の雑誌がいちばん最初に借りた四谷三丁目の事務所。おれがチンチロリンにはまっていたころで、徹夜でサイコロ振って、そのまま寝ないでボーッと事務所にいくと椎名がボーッと昼前に現れるの。で、おれも椎名もボーッとしたまま椅子に座ってさ。特に会話もなく(笑)、そのまま夕方までいたことがある。それを覚えているのはその間、一度も電話が鳴らなかったんだ。平日だよ。事務所を作ったものの、大丈夫かなあこの会社って思ったのを覚えている(笑)。
椎名大丈夫じゃないよなあ(笑)。
目黒問題はね、この「コッポラコートの私小説」に初期エッセイの文体が混入していることかな。文庫版の127ページなんだけど、椎名が仕事やる気がなくなって会社を出ようとして部下の菊池仁に声をかけるくだりなんだけど、
ところが菊池仁は「ああ、いいよ」と言って、こちらの顔も見ずに赤川次郎の『三毛 猫ホームズの冒険』を読んでいるのである。読みながら弁当のあとの楊枝をつかっているのである。三毛猫ホームズは許せるが楊枝は許せない、どうして楊枝だと許せないんですか、と言われても許せない! 許せないったら許せない! とぼくはヤギ眼で力なく菊池仁をにらみながら思った。
これは初期エッセイに顕著にあった文体で、いま読むととても辛い。それがここにふっと入ってきている。この「コッポラコートの私小説」はデビューしてから5年後に書かれた作品なので、まだ油断すると初期文体が出てきちゃう時期だったんだろうね。
椎名この表題作は好きなんだけどな。
目黒「土星を見るひと」ね。
椎名土星をずっと観察している人に会いに行った日に、娘の葉が飼っていた犬が死んだんだ。直接は何の関係もないんだけど、宇宙のずっと遠くにある土星と、犬の小さな命がつながっているように感じたんだな。それを小説に書きたかった。まだ未熟だったから、うまく書けたかどうかはわからないけど。
目黒この短編のラストに、語り手の水島が自宅に電話するシーンがある。そこで犬が死んだことを水島は聞くわけね。で、娘はどうしていると尋ねると、泣きつかれて眠ったと妻が言うの。とてもいいシーンだよね。ところがこのシーンが効果的に浮かび上がってこない。まだそういう小説の構成が未熟だったころだからだと思う。いまならもっとうまく書けるんじゃないかなあ。
椎名そうだなあ。
目黒だから、いま読むと普通の小説で終わっている。全体的にもばらばらという感があるね。
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