『全日本食えばわかる図鑑』

目黒それでは『全日本食えばわかる図鑑』にいきます。ビッグコミックスピリッツに連載したB級食エッセイだね。当時の椎名にしては珍しいよね、食だけのエッセイは後年、夕刊フジに書いたものはあるけど、当時はこれだけでしょ?

椎名夕刊フジだけじゃなくて、後年は小説新潮にも書いて本になってるし、そういう食エッセイの原点だろうね、これが。

目黒これは面白かったよ。同じ初期エッセイでも、『日本末端真実紀行』とかよりもこちらのほうが断然いい。

椎名テーマがはっきりしているほうがいいってことかもしれないな。

目黒1985年3月に小学館から刊行され、1989年4月に集英社文庫に収録。連載のときは椎名がイラストを描いていたけど、単行本のときは沢野のイラストに変更と。もったいないね、連載のときに椎名が描いていたイラストを見たいなあ。それはともかく、初期エッセイなのでいま読むと恥ずかしい文体はあるけど、たとえば文庫版193ページの冒頭とかね、でも話自体は結構面白い。新宿駅前にあった五十鈴の話とかね。

椎名おばあちゃんたちがやってたおでん屋な。

目黒村松友視さんが小説誌に五十鈴の話を書いていたね。

椎名あ、そう?

目黒いろんな人が行ってたんだなと。それで思い出したんだけど、カウンターの向かい側に、どこかで見たことのあるようなおやじが座ってたんだよ。肉体労働しているような、がっしりした体格の人が。書店の仕入れの現場で見た人かなあと思って、家に帰ってから気がついた。レオナルド熊なんだよ。芸人の。

椎名朝までやってたから、出版関係のほかにも放送関係とかの客が多かったみたいだな。

目黒あれっと思ったのが、信濃町のセントラルマンションに本の雑誌の事務所があったころ、近くの珍萬からラーメンを出前してもらってたよね。その珍萬の娘さんが結婚することになったという話が出てくるんだけど、あのころ、椎名は忙しくて、風のように来て風のように去っていってた時期なのに、よくそんなことを知ってるよね。

椎名みんな知ってたよ。お前だけだよ知らないの。

目黒そうか、おれはまわりのことに興味がなかったから目に入ってこなかったのかもしれない。

椎名てきぱきとして、しかも丁寧で、いい娘さんだったんだよ。

目黒珍萬はおやじさんと娘さんが出前してたから、娘さんが結婚するともう出前は無理かもしれないと言われて椎名ががっかりする話ね。

椎名あのころオレは信濃町のセントラルマンションにラーメンを食べるために行ってたみたいなところがあるから。

目黒じゃあ、珍萬以外にも二軒のラーメン屋に出前を頼んでいた、というのも本当なの? おれ、珍萬だけかと思ってた。

椎名木原さん(のちの群ようこ)が開拓してくれたんだよ。

目黒おれが覚えているのは、椎名と沢野が珍萬にラーメンを頼んで、食べ終わった椎名が帰ろうとしたときのことで、「椎名くん、ラーメンのお金」と沢野が催促したら、うっせえなお前、と椎名が怒りだしたの(笑)。『椎名誠の増刊号』に書いた話だけど、椎名は覚えてる?

椎名記憶にない(笑)。

目黒突然思い出したけど、椎名の書いた食べ物の話でいちばん印象深いのは、何で読んだのか忘れてしまったけど、アンデスの山中を旅していたとき、醤油が切れちゃって、そこに通りかかった日本人から醤油をわけてもらうというくだり。で、お湯にその醤油を一滴垂らして飲んだら、すごく美味しかったという体験を椎名が書いたことがある。あれはいまでも覚えている。世の中でいちばん美味しいのは「醤油お湯」であると。

椎名あれ以上美味しいものは世の中にないよ。

目黒醤油の力は偉大であるということだよね。どこで読んだのかなあ。『パタゴニア』かなあ。

椎名そうかもしれない。

目黒あと、この本の中で印象深い挿話は、秩父の山中で貰ったおかかのお握りは美味しかったという話。トレッキングしてて、そこで出会った3人のおやじが、お握りをくれるんだよ。それが押しつけがましくなくて、微妙な距離感があって、それがまたいいんだけど、そして食べたお握りが旨かったと。なんでもない話だけど、食べたものが美味しいかどうかはそのときの状況によるんだなと伝わってくる。

 

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