『さらば国分寺書店のオババ』その6
目黒おれがデパートニューズ社に入社したのが1970年で、その年の秋にやめるんだけど(笑)。
椎名困ったやつだったよなあ(笑)。
目黒で、1971年に椎名に送ったのが手書きコピー誌の「SF通信」。
椎名読者が増えるほど赤字になるというやつな(笑)。
目黒その「SF通信」に椎名が小説を書いたことがあるんだけど、現物が残ってないんだ。おれの「SF通信」はコクヨのB5便箋を横にして、10枚くらいの分量なんだけど、同じコクヨのB5便箋に椎名が手書きで小説を、4〜5枚だったかなあ書いてきたんだ。で、そのコピーを「SF通信」の末尾につけてみんなに郵送した記憶がある。
椎名それが「アド・バード」の原型?
目黒いや、「アド・バード」の原型は「アドバタイジング・バード」だろ。そっちは「SF通信」のただ一度の別冊として作ったタイプ誌「星盗人」に載った。
椎名これだよな。
目黒えーっ、まだ持ってるの? エライなあ。この「星盗人」はオレのおやじがタイプ印刷をやっていたころなんで、おやじに作ってもらった。百五十部だったかなあ。でもこれとは別に、手書きコピー誌のほうに椎名が小説を書いたことがあるんだよ。火星を舞台にした小説だったような記憶があるから、「アド・バード」とはまったく関係なく、別の作品だったのかもしれない。
椎名奇想天外の新人賞に応募したのが、この「星盗人」に載せた「アドバタイジング・バード」を書き直したやつだ。
目黒それ、奇想天外に応募するときに、目黒、ちょっと読んでくれって池袋駅前のビアホールに呼び出されて、オレ、読んだことがある。
椎名それ、覚えてないなあ。
目黒おれが読んでたら、突然、テーブルをどしんと叩く音がして、「まだ飲む!」って椎名が言ったんだよ。びっくりして顔をあげると、ボーイさんが硬直して立ってるの。ようするに、椎名が飲んでいた生ビールのジョッキをボーイさんが片づけようとしたんだな。ところがそのジョッキにはまだ生ビールがかすかに残っていたから、椎名が怒ったわけ(笑)。あのころは椎名がしょっちゅう外で喧嘩していたから、一緒にいると気が休まらなかったよ(笑)。
椎名そのときの奇想天外の新人賞を受賞したのが新井素子さんだ。
目黒郵送してたら締め切りに間に合わないんで、椎名が編集部まで届けたんだよ。そのときに対応してくれた編集部のT君とその後仲良くなって、T君がしばらく本の雑誌を手伝ってくれたよね。
椎名お前、よくそんなこと、覚えてるなあ。
目黒昔のことは覚えてるんだよ。最近のことは忘れちゃうけど(笑)。
椎名応募したのはそれが最初で最後だな。
目黒その奇想天外の第1回新人賞は1977年で、椎名が33歳のときなんだけど、その前年に作ったのが「本の雑誌」の創刊号。あのときさ、椎名はそれまで作ってきた「幕張ジャーナル」や「斜めの世界」と同じ延長線上に考えてた?
椎名どうだったかなあ。オレが覚えてるのは、目黒が原稿を書く人から原稿料を貰うのはやめようとかたくなに言ったこと。おれとしては、「幕張ジャーナル」や「斜めの世界」と同じ延長線上にあったのは事実なんだけど、金を取らないという一点でなんとなくこれまでとは違うんだなと感じたな。
目黒同人誌は作りたくなかったんだ。
椎名あれがその後の道をずいぶん変えたような気がする。あのとき、もし原稿を書く人から原稿料を貰ってたら、こうはなっていなかった。それに、最初は原稿料を払えなかったけど、すぐに支払うようになったよね。薄謝だけど。
目黒いくら書いても図書券1000円とか。香山二三郎が「椎名さん、図書券じゃお米買えないんですよね」と言ったってのもそのころの伝説になってる。
椎名ま、言われても不思議ではないな(笑)。
目黒そのころね、高校の同級生がやはり雑誌を作っていて、新宿の紀伊國屋書店で売ってたんだ。あのころ、若者たちの自主メディアって結構あったんだよ。何かの機会に同級生と会うことがあって、聞いたら、彼らの雑誌は都内で八百部売ってるというんだな。すごいと思ったよ。見知らぬ人が八百人も買ってるんだからね。だから、本の雑誌を創刊するときの目標はその八百部だったの。でも、やっぱりびびって五百部しか刷れなかった。
椎名なるほどな。
目黒おれがデパートニューズ社をやめたのが1971年で、「本の雑誌」の創刊が1976年だから、その間5年あるんだよ。よく会ってたよなあ酒場で。で、そのたびにこういう雑誌を作りたいよねえと何度も話して、誌名まで早い段階で決まっていたのに、結局何もしなかった。
椎名そうだったなあ。
目黒たぶん、あのとき本多健治が現れなければ、絶対に酒の席の話で終わっていたと思う。本多は行動力があるから、あれよあれよという間に創刊号が出来ちゃった。
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