『国境越え』
目黒次は『国境越え』。2012年に新潮社から本になって、2015年に新潮文庫と。これは異色の本だよね。小説と写真を合体させた本。これは先に小説を書いて、それに合う写真を捜したのか、それとも写真を捜してからそれに合う小説を書いたのか。
椎名自分の行った土地の話を書いたんだ。行ったことがあるということは、写真は絶対にあるからね。あとで写真を捜せばいい。
目黒なるほど。それでは、収録の6編のタイトルと内容紹介を並べておきます。
①「窓」──パタゴニアまできた若き船員たちの話
②「南の島のライオン」──自主映画を撮りにきた男の日々
③「砂州の上の夜」──犬と一緒に川を下る友人を四万十川で撮る話
④「眼の中の蚊」──夜更けまで小説を書く男が飛蚊症になる話
⑤「国境越え」──四話にわかれているが、アンデス山中を四人で旅する話
⑥「どんどんひゃらり」──ふたたび「窓」の登場人物が出てくるが、途中から、ドキュメンタリーや原稿仕事をしている「わたし」が出てくる
という6編なんですが、すごく不思議なんだ。真ん中の二編は完全なる私小説なんだよ。ところが、最初と最後の二編は、パタゴニアにやってきた船員の「おれ」と「市六」「椋やん」が登場する完全なフィクション。厳密に言えば、⑥のほうには原稿を書く男が登場してるから、①と⑥は微妙に違うんだけどね。そして②と⑤がその中間。作者らしき人物が登場するんだけど、完全な私小説とは言いがたいやつ。つまり、真ん中の二編の私小説をピークに、外側にというか、前と後ろに向かって「私」の度合いが薄まっていくの。この意図がいくら考えてもわからない。
椎名それは偶然だよ。
目黒えっ、偶然なの?
椎名そんなこと、考えたこともなかった。
目黒本当かよ。じゃあ、冒頭に登場した若き船員たちがふたたび登場する最後の短編で、ドキュメンタリーや原稿の仕事をしている「わたし」が途中で語り手になる構成の意図もわからなかったんだけど、これは?
椎名深い意味はないな。
目黒────。(気を取り直して)、今後このラインの仕事をするのかどうかわからないけど、もしもう一度チャレンジするのなら、完全なフィクションに徹したほうがいいと思う。それともう一つ、巻末に椎名の写真集・写文集のリストが付いているけど、これはいいね。この『国境越え』が27冊目であることがわかる。
椎名27冊か。
目黒そうだよ。ただし、こういうリストを次に載せるときは少し考えてほしい。
椎名なに?
目黒以前も言ったと思うけど、椎名の写真集・写文集って、いろいろなパターンがあるんだよ。たとえば、極北は写真だけの本だよね。『ONCE UPON A TIME』がそうだ。その反対が、文章が主体で、写真は挿絵のように挿入されているもの。たとえば、『風景進化論』のような本。この2冊はまったく違うジャンルだと思うんだ。それを「写真集・写文集」という括りで一緒にするのはどうか。そして、この両者の真ん中にあるのが、文章と写真が半々になっているもの。つまり、椎名の写真集・写文集は3つのパターンにわけられると思う。
椎名ふーん。
目黒いや、そうしたほうが読者が便利になると思うんだ。たとえば、この『国境越え』が面白かった人が、似たような本を読みたいと思ったときに、そういうタイプ別のリストが付いていたほうが便利だろ。
椎名そうか。
目黒いや、文章と写真の比率だけでタイプをわけるのも問題か。だってこの『国境越え』は小説と写真の混在の本だから、エッセイと写真が混在する本とはまた趣が異なるよね。困ったな。
椎名あのさ、おれも言いたいんだよ。
目黒なに?
椎名この『国境越え』はとても楽しい仕事だった。
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